80代の老人が1人で作った「民主主義を本当に守る新聞」の軌跡、ローカル局制作映画が映す日本のメディアと民主主義のヤバすぎる本質的問題
過疎が進む穴水町政を伝えるのは「紡ぐ」だけだが、私が住む東京都大田区はどうか。東京のメディアは日本の政治は伝えるが、都内の自治体への興味は薄い。東京都知事選挙では大騒ぎしても、大田区長選や区議会議員選は結果を伝えるのがせいぜいだ。私は恥ずかしいことに、大田区長の名前を知らない。なあなあで済ませてきた穴水の町民と大差ない。
大田区は人口が75万人もいて、小さな県のレベルだ。だが、大田区のことを伝えるメディアは存在せず、事件や事故が起きたときだけテレビが報道する。東京23区はみんな同じだ。
いや、関東の自治体は在京キー局が関東のローカル局としてカバーするには広すぎる。東京23区同様、各県の市町村のことを伝える放送は薄い。それなのに、私たちは国政をわかったような顔で語っている。政治を語れるつもりになっている。自分が住む自治体のことはほとんど知らないくせに。
関東広域圏という放送エリアは、全地域をカバーできるはずがない。放送局は民主主義を守っているといえるのか。県域の放送局もほとんどが県庁所在地にあり、それ以外の市町村をどこまでカバーできているだろう。
私たちは滝井さんを見習うべきだ。みんなが滝井さんになるべきだ。それを実践しない限り、私たちは穴水町の町民や議員たちの“なあなあ”ぶりを笑えない。
ドキュメンタリーの“常識”は正しいのか
最後のほうで、五百旗頭監督は町長に、町議員選挙の際の小さな違反を突きつける。町長もそれを認める。だが、五百旗頭監督はそこから『はりぼて』のように追及するのは目的にしていないようだ。むしろ、町の人々や滝井さんと一緒になり、穴水町の民主主義の再生を見守ろうとしている。ドキュメンタリー映画そのものが、町に関与しているかに見える。

ドキュメンタリーの作り手は、撮る対象に関わってはならないとの考え方がある。だが、五百旗頭監督は自身が映り込むことは避けず、むしろ積極的に被写体に関与している。それは正しい姿勢だと私は考える。
なぜならば、そもそも撮る対象に関与してないというのはウソだからだ。カメラを向けると人はそれを意識し、互いに関与してしまう。だからこそ、『能登デモクラシー』は穴水町を変えた。
メディアの存在価値をあらためて考えたくなる映画だった。公開館はいま、少しずつ増えている。
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